追悼 上原重男先生

上原さんを偲ぶ

長谷川寿一

 私が上原さんに初めてお目にかかったのは、私と眞理子が高宕山でニホンザルの調査を始めた1974年の秋ごろだったと思います。私たちはまだ駆け出しの学部3年生、上原さんは博士課程で雲の上の方でした。上原さんと西田さんが、スワヒリ語と京都ことばを交えながらカソゲの調査の進捗状況について話しあっているのを傍らで聞きながら、いつか自分もアフリカにいけるのだろうかと夢想していたように思い出されます。

 当時上原さんは、京都在住だったので、高宕山の調査でいつもご一緒できたわけではありませんでしたが、いらっしゃったときにはいつでも、私たちの調査の手ほどきをしてくれました。ちょっと突き放すような言い方で、ときにけらけらと笑いながら論理的に解説してくれたさまざまな情報やフィールドでの知恵は、初学者にとって大変に有用なものばかりでした。上原さんは、野球帽を後ろ向けにかぶり、一澤帆布の肩掛けバッグをかけ、地下足袋姿で山に現れました。あの歴戦練磨の布製の黄土色のバッグにはあこがれて、すぐに買い求めたものです。

1976年のゴールデンウィーク、東大の千葉演習林、郷台ステーションで上原さんと茂世さんの結婚パーティがありました。ご夫妻でアフリカに旅立たれる直前のことだったと思います。人里離れた古びた宿舎では皆が夜明けまで声が枯れるほど歌い続けました。こののち上原さんはJICAの専門家としてマハレに出発しました。

  上原さんが2年の滞在から戻られ、今度は私たちがマハレでの調査に赴任する番になりました。その準備に際し、JICAの業務、スワヒリ語の特別個人レッスン、タンザニアでのサバイバル方法、地元トングェの人々とのつきあい方など、調査のすべてに渡って懇切丁寧に、夜遅くまで教えて頂きました。そのときの準備メモは、大学ノート丸一冊になりました。

 私たちのマハレでの調査では、カンシアナをベースにしましたが、しばしば上原ご夫妻の築いたミヤコキャンプにも足を運び、雄は老いたカメマンフと若いマシサしかいなくなったKグループの最後のステージを観察しました。湖に面した岬の玉石の浜辺、ワンベコ岩、燃えるような夕焼け、カラバイ越しに聞くラマザニやモハメディの得意話などなどは、上原ご夫妻と私たちが共有する大切な思い出です。マハレでの私たちは相談事があるたびに上原さんに手紙を差し上げ、そのつど的確なアドバイスを頂きました。

 このように、上原さんにはいつも教えを請うことばかりでした。闘病の間、上原さんの病床には、2度、お見舞いにうかがいましたが、ここでもすぐに研究の話にのめり込みました。昨年お聞きした、マハレのチンパンジーとシリアゲアリ(シシミジ)がローカルに共進化したようだという話には心から魅了されました。早く論文にしたいというのが、私が聞いた最後の遺志です。ぜひ、若い研究者の皆さんで形にしてくださるようお願いします。

本当にフィールドがお好きで、カソゲにはなくてはならない重鎮でした。あまりに早いご逝去は残念でなりませんが、これからは、カソゲの守護神として空から後輩の研究と、チンパンジーとマハレの自然の保全を見守って下さるのだと思います。上原さん、引き続き、どうぞよろしくお願いします。

(はせがわ としかず、東京大学)




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