マハレのチンプ(ん?)紹介    
第10回 ピンキー

紹介者 西田利貞

   ピンキー

写真1: ピンキー(1985年12月)

  ピンキー(写真1)とオパールは同期生である。ピンキーと同じ年の1983年に、Mグループに転入してきた。彼女はピンクの巨大な性皮の持ち主だったので(写真2)、名前はすぐに決まった。彼女は人になかなか慣れず転入当初どんなことをしていたのか私は知らない。しかし、彼女はチンパンジー集団の中では次第に頭角を表わしていった。彼女は、オパール同様、Mグループの縄張りの北部を中心的な行動圏とした。ピンキーは初産の子も、その次の子も赤ん坊のときに失った。3度目の正直が、息子のプリムスである。1980年代、経済はどん底にあったタンザニアでは酒が入手できず、密輸品として対岸のザイールからカソゲに入ってきた唯一のビールのブランド名が「プリムス」である。その後、タンガニーカ湖の貨客船リエンバ号のバーで売られていた。1990年にプリムスが誕生したあと、グェクロがピンキーに接近し始めた。そして、プリムスの乳母となった。プリムスが成長してしまうと、グェクロはプリムスの妹パフィーの乳母になった。こうして、ピンキーとグェクロはMグループ最強の雌連合を形成したのである。

   
ピンキー

写真2: 若いときのピンキーの性皮は巨大だった


1987年、アルファオスのカルンデが、ファナナの挑戦を受けたとき、カルンデの「奥さん」というあだ名のあったンコンボがカルンデに味方をするのは誰でも予想できた。しかし、ピンキーとグェクロが、勇敢にもカルンデの方を応援したのには驚かされた。そのため、カルンデはすぐにはファナナの攻撃に怯まなかった。

なかなかの強面だが、ピンキーは実に遊び好きだった。小さいパフィーをグェクロに預けて、プリムスを相手に延々とレスリングを続けることが多かった。また、肉にも目がなく、死にかけの渡り鳥ブラック・カイトをかじったり、新鮮ではあったがヒョウの死体にも手をつけた。2006年のインフルエンザ様の病気が流行して以来姿を消したので、同期生のオパールと同様天国へ召されたらしい。幸い、パフィーには乳母が残されている。


(にしだ としさだ (財)日本モンキーセンター)



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