第40回 ヴォルタ

紹介者 島田 将喜


  タンザニアで長くフィールドワークを続けていると、日本ではまず遭遇しないようなトラブルや事件・事故を目撃したり、そうした事態に巻き込まれたりといった経験を重ねます。私もマハレに通い始めて20年以上が経過し、身の回りで起こる大抵のトラブルにはあまり驚かなくなり、冷静に対応できるようになりました。野生チンパンジーの観察を私がやめられないのは、そうした人間界の経験をいくら積んでも、彼らの世界ではアッと驚くような出来事が起こるためでもあります。
 2022年9月、私は新型コロナによる2年以上のブランクの後、やっとマハレに行くことができ、顔見知りのチンパンジーとの再会を喜んだのですが、子どもたちはすっかり姿かたちが変わってしまっていて、どの子が誰の子なのかを確認する作業には苦労しました。5歳オスのヴォルタもそんな子で、彼は再会時、子どもがいないはずのおばあさんのンコンボ(マハレ珍聞19号)と一緒に歩いていていました。どうやらコロナ期間中にお母さんが亡くなり、ンコンボに毛づくろいなどの面倒を見てもらっていたようです。
 ある日、私はンコンボを追跡し、午前中いっぱいヴォルタと一緒に行動しているのを観察しておりました。午後になってオスたちが集まり、かわるがわるディスプレイ(示威行動)を始めました。ヴォルタもンコンボも、いかついオスたちの突進を避けようと、近くの大木に駆け上がりました。
 それから2分後に私が何気なく辺りをうろついていると、木の上にいるはずのヴォルタが仰向けに横たわり、口と鼻から血を流し痙攣しているではありませんか!どうやら着地の際に、運悪く落下地点にあった丸太に頭部を強打してしまい、強い脳震盪を起こしたようです(写真1)。



写真1 座った姿勢になったとたん鼻腔内に溜まった鼻血が流れ出て大変な姿になったヴォルタ。



 私自身は墜落の瞬間を見ていなかったのですが、調査のアシスタントが「オスに突進されて木に駆け上がった後、ヴォルタが枝から落ちたのを見た」と教えてくれました。「チンパンジーも木から落ちる」のに出くわすこと自体、めったにないことですし、ましてそれによって正常に動けなくなるようなダメージを負うのを観察するのはきわめてまれです。
 やがて周囲にいたチンパンジーたちも、出血し痙攣するヴォルタの異常さに気づき、主にオトナオスたちがヴォルタの周りに集まりました。彼らは、ヴォルタの体を毛づくろいしたり、体に付いた血を舐めたり、たかるハエを手で追い払ったりしました。養母のンコンボも、樹上からヴォルタの容体と集まってきたオスたちの様子をじっと見守っていました。彼らのその様子は、一語で言い表すとすれば、ヴォルタを「心配」しているかのようでした。
 ただ最初は心配していたチンパンジーたちも、徐々にその場からいなくなってしまいました。ヴォルタも集団の移動についていこうと、よろよろと歩くものの、結局動けなくなり、数時間後には一人森に取り残されてしまいました。夕方までに数回嘔吐したり、座った姿勢を維持できずその場に倒れこんでしまったり、本当に具合が悪そうでした。夕闇が迫る中、私は悩んだものの結局、ヴォルタを森に残してカンシアナキャンプに戻りました。
 きわめてまれな野生チンパンジーの墜落事故によるヴォルタの怪我や、周囲のチンパンジーたちがヴォルタを心配する様子についての詳細は別稿に譲りますが、私がこの観察を通じて一番驚いたのは、実は、恥ずかしながら観察者の私自身が、正常ではいられなかった、ということでした。木から落ちて頭を強く打った人間の子どもが目の前に横たわっていれば、皆さんならどうするでしょう。すぐに介抱したり医者に連絡したり、あるいは何かできることはないかと迷うはずです。でも倒れこんでいるのが野生チンパンジーの子どもだったら??野生動物の命が目の前で危険にされされている状況に、人として研究者として、どうすべきか非常に悩みました。どうすべきだったのか、そもそも正解はあったのか、私には今もよくわかりません。
 その後姿が見えなくなり安否が心配されたヴォルタでしたが、事故後、1か月半ほど経って、元気な姿を見せ、ンコンボと一緒に歩いているのが確認されました(写真2)。彼らの自然治癒力の高さにも改めて驚かされます。チンパンジーたちには、できればもっと別のことで私を驚かせてほしいなと思います。



写真2 元気になったヴォルタ(左)とンコンボ(右)(Abdalah R.氏提供)





(しまだ まさき・帝京科学大学)




第40号目次に戻る次の記事へ