第36回 キルト

紹介者 島田 将喜


 当たり前のことですが、チンパンジーたちが互いを名前で呼び合っているわけはありません。マハレM集団のチンパンジーたちには一頭ずつ名前が付けられていますが、研究上の必要からタイミングを見計らって研究者が決めているのです。最近では、母親の名前を英語で書いた時の頭文字を、その子の名前の頭文字にも付けることで、彼らが母子であることがすぐに分かるよう配慮しています。2008年に調査に入っていた私は、カナートQanatの満2歳になる娘にはそろそろ名前が必要だと考えました。ただQで始まる感じのよい単語を思いつくのは容易ではありませんでした。そこでカンシアナキャンプに置いてあった英和辞典をめくり、たくさんの英単語の中から、布を縫い合わせてする刺縫いという意味のキルトQuiltという単語を選んで名付けました。何となく女性的なイメージがあったためです。これがよい名前かどうかは皆さんに判断していただくとして、私自身は、彼女の名付け親になったような気になって、キルトのことをより一層、深く理解しようという気持ちになったのを覚えています。そんなキルトとの忘れられないエピソードを紹介しましょう。



写真 島田が紛失したビデオカメラを「精査」するキルト



 2014年、私が観察中に大切な仕事道具の一つ、SONY製のビデオカメラを、あるチンパンジーを追跡中にやぶの中に落としてしまったときのことです。深いやぶを潜り抜けていった別のチンパンジーの後を、腹ばいになって追跡していた私は、調査用ベストのポケットに入れたと思っていたカメラを途中で落としてしまったことに気づかなかったのです。なくしてしまえばカメラ本体はもちろん、そこに収録されているはずの撮りためた貴重な動画データがすべて失われてしまいます。私がカメラの紛失に気づいたのは、やぶ漕ぎ開始から10分後のことでした。私が青くなって、もと来たやぶをアシスタントと一緒に探しに戻ったのは言うまでもありません。
 さてこのときは幸運なことに、数分後にカメラを発見することができました。なんと当時7歳のキルトが仰向けの姿勢で、私のカメラをしっかりお腹の上に抱えこんでいるではありませんか!私は、心の中でほっとする一方、どうやって彼女からカメラを返してもらおうか頭を抱えました。またキルトが(初めて触れたはずの)カメラに対してどんな行動をするのか、きちんと観察しなくては、という「研究者としての欲」が湧いてきます。そこで手持ちの別のデジタルカメラの動画撮影機能を用いて一部始終を記録することにしました。
 キルトは、カメラの本体部分に対して噛む、舐める、体の上で転がすといった探索行動を続けています。しばらくすると手でカメラを前方に転がして、走ってこれを回収し、また仰向けの姿勢になり両足で持ち上げて蹴るといった行動を続けました。どうやら新奇な物体を手に入れて、新しい「遊び」を思いついたようです!
 キルトはカメラの側面にある撮影時に手を固定するためのベルトのマジックテープ部分をはがして、ほどきました。すると長さ30pほどのベルトの先にカメラがぶら下がっている状態になりました。鼠蹊部ポケットにこれを挟み込んで両手と片足で運搬し、木に登りました。そしてベルトの一端を噛んで、地上から5mほどの高さの枝に、両手でぶら下がりました。さらに口からぶら下げているカメラを両足で交互に蹴り続けました。
 「そんな乱暴にカメラを扱わないでくれ!」という私の心の叫びもむなしく、キルトは地上にカメラを落下させると、素早く地面に降りてこれを回収し、木に登り同じ行動を続けました。しかし、二回目にキルトがカメラを落としたとき、私とアシスタントはキルトに負けない速さで墜落地点に駆け込んで、なんとかカメラを回収することに成功しました。ちなみに、キルトから回収したビデオカメラは今も現役で調査用に稼働中で、もちろん中のデータも無事でした。さすが日本製!と私が感激したことは言うまでもありません。
 もちろん人獣共通感染症のリスクといった観点からも、フィールドで観察者が物を捨てたり紛失したり、あまつさえチンパンジーにそれを盗られるといったことは、本来あってはならないことで、その点、今も私は反省しています。幸い、このあともキルトは元気に成長し11歳になると、この年頃の娘と同様にM集団を出て、別の集団に「嫁入り」したようです。キルトにマハレの森で出会うことはもうできないでしょう。でも彼女からカメラを「返してもらった」強烈な記憶や、一部始終を記録した映像は、決して消えてなくなることはありません。

(しまだ まさき・帝京科学大学)




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