第36回 エモリー

紹介者 島田 将喜


 大学の授業などで、私がマハレでの調査中に撮影した野生チンパンジーの動画を見せる機会があります。動画を見た学生さんたちが、まず驚くのは、どのチンパンジーも同じに見えるのに、私がビデオの中でチンパンジーたちの顔を見分けて、名前で呼んでいるということです。動物の一頭一頭に名前をつけて区別することを「個体識別」と言います。研究者にとって、マハレM集団のチンパンジーのそれぞれは、いわば研究の相棒みたいなものですから、彼らの個体識別はできて当たり前です。ただ初めてその動物を見る方々にとっては難しいというのも無理もありません。でもそんな個体識別初心者の学生さんでも、必ず識別できるチンパンジーがエモリーです。
 エフィーの息子のエモリーは、2000年10月生まれの、今や立派なオトナオスです(写真1)。私がマハレで初めて観察を始めたころにはまだ1歳に満たないアカンボウで、母親のエフィーが当時まだ観察者に慣れておらず、あまり近づけなかったこともあって、実は印象が大変薄く、正直、私の識別もあいまいでした。
 ところが私の帰国後に、エモリーは左手の人差し指と中指の先を失い、おまけに薬指も外側に折れ曲がったままなってしまうという大怪我を負いました。またお腹にゴルフボールほどもあろうかという目立つイボができて、それが二つも残ってしまいました(熱帯性潰瘍という病気の痕なのか、ヘルニアのような病気の痕なのか、私にはわかりませんが、痛がっている様子がないので今ではすっかり治っているのだと思います)。チンパンジーは成長すると姿かたちがどんどん変わっていき個体識別に苦労する場合があるのですが、こうした怪我やイボは失われないので、いつでも誰にでも、他のチンパンジーとの区別がつくというわけです。



写真1 15歳のエモリー。左手の怪我とお腹のイボが目立つ。



 さてそんな身体的な特徴をもつエモリーですが、私にとっては時に独特な遊びを披露してくれる個体として印象に残っています。一例を紹介しましょう。10歳になったばかりのエモリーが、ある天気のよい穏やかな日に一人でカシハ川に出てきました。雨はしばらく降っていないために、川は浅く流れは大変緩やかでした。タンガニーカ湖の方から西日が差し込んできており、辺りは風もなく水面は鏡のような状態です。
 エモリーは流れの途中の岩の上に座ると、水面を覗き込みました。そして四足で岩の上に立ち、顔から50pほど下の水面を覗き込み、身体を小さく左右に揺すります。また水面に右手で触れてみたり、唇を水面ぎりぎりに近づけて、口を開けてみたり、水面にキスをしてみたりといった動作を繰り返します。しばらくすると少し場所を変えて、また体を左右に揺すりました(写真2)。



写真2 10歳のエモリー。水面に映る自分の姿と対面している。



 こうした行動は、チンパンジーが水のある環境でする遊びの一つのパタンで、「水鏡 water mirror」と呼ばれています。ただチンパンジーにはあまり人気のある遊び方ではないのか、私も数えるほどしか観察したことがありません。オトナや老齢の野生チンパンジーは水を避けることが多いのですが、コドモやワカモノは、水たまりなどで、水面を手や足ではじいたり、水をかき混ぜたり、泥水の中で転げまわったり、といった一人遊びをすることがあります。浅い川や水たまりのように、水のある環境でのみ成り立つこれらの遊び方のうちでは、「水鏡」は想像力を要するものといえるかもしれません。エモリーは水面に鏡写しになっている自分の体の揺れ、手の動きや顔の表情といった自分の姿や動作と鏡像の同期を楽しんでいたのでしょう。
 ギリシア神話に登場する有名なナルキッソスのエピソードは、「水面に映った自分の姿に見とれて恋をしてしまう」というものでしたが、あいにくエモリーはこの時体調を崩していたようで、しばらくすると下痢便をして、その場を立ち去っただけに終わりました。このようにエモリーはイケメンとは言えないかもしれませんが、動画を見終わった学生さんたちは、彼のことを「チンパンジー」と呼ばず、「エモリー」と名前で呼ぶようになり、それぞれのチンパンジーがいかに個性的な存在かに気づいてくれたようで、私はうれしく思います。

(しまだ まさき・帝京科学大学)




第36号目次に戻る次の記事へ