辿り着けなかった場所木村 大治
マハレは私の中で長いこと、親しいが辿り着けない場所としてあった。自分のやりたいことに迷いが生じ、人類学の勉強を始めたのは1980 年代のはじめ、京大理学部3 回生のころだった。いろいろ読んだ本の中に、伊谷さんの『チンパンジーの原野』があった。第1 章に書かれた「焼けた枯れ草の炭素が、朝陽を受けて鉱物質のきらめきを発する」という、マハレ東方・イプンバ山の描写に強烈な印象を受け、「原野に行ったなら、けもののようになって帰ってくる」というトングウェの言葉に胸を躍らせた。カソゲ、マラガラシ川、ルグフ・ベーズン、フィラバンガといったマハレ周辺の地名も、同時に記憶に刻み込まれた。私は、こんな文章が書ける人について勉強したいと思い、人類進化論研究室の受験を決意したのだった。 写真1 マラガラシ川 28 日朝、宿主の老人と片言のスワヒリ語で話すが、「イタニを知っている、彼は短い間来ていた」と言っていた。カワナカやウエハラももちろん知っているそうだ。柏手を打って挨拶してくれた。エアストリップにある公園事務所で手続きを済ませ、10 時15 分、松浦君、ガイドのフセイン氏とボートで出発。マハレ半島を回り込むにつれ、湖岸の乾燥した疎林が、みっしりと葉をつけた森に変化してきた。タンガニイカ湖を渡る風がマハレ山塊にぶつかって雨を降らせるのだ。30 分ほどでカシハの港に着く。ロッジは自炊で、とりあえず松浦君と飯を炊き、カトゥンビで買ってきた魚を料理した。 13 時過ぎからさっそくチンパンジーを見に出かける。涸れ川を渡るが、昔ビデオで見た、当時アルファメールだったントロギが大石をひっくり返して暴れていた場所だろうか。植生はワンバの熱帯林に比べれば疎で、「東に行くと必ず登り」である。観光客が歩き回る地域にはトレイルが整備されており、交点に道標が立っている。“TAKAHATA” と書かれた道標を見つけて驚いた(写真2)。ワンバの果てしなく広がる森に慣れている私は、箱庭に入ったような感じがした。15時20 分、やっとチンパンジーを見つける。なにか責任を果たしたような気がした。オモとオマリという母子だと、フセインが説明してくれた。この日は、オスはほとんど見ることができなかった。 写真2 TAKAHATA の道標 写真3 グルーミング・クラスター 29 日は朝から昼まで観察である。一度カンシアナ・キャンプを見たかったので、最初に連れて行ってもらう。途中、キャンプから降りてくる島田君に出会った。キャンプはブロック造りの立派な建物で、西田さんが捨てた種から生えたというレモンの木があった。その後、パントフートを手がかりに森の中を行ったり来たりするが、11 時過ぎにオスの集まりを発見した。2 頭でグルーミングをしていたと思ったら、そこに他の個体が寄ってきて、4 〜 5 頭の塊ができた。中村美知夫君の言うグルーミング・クラスターというやつである(写真3)。彼らはゆっくりと、体の位置を変えながらグルーミングを続けた。熱心なことはわかるが、なぜそのように続けなければならないのかが結局のところよくわからない。西江仁徳君の言う「認知的強靱さ」という言葉が頭に浮かんだ。人間と近いが、しかし決して理解し尽くせない彼らに会うために、みんなここに来て研究を続けているのだ。際限なく続くグルーミングをビデオに収めながら、私はそんなことを考えていた。 (きむら だいじ・京都大学) 第34号目次に戻る | 次の記事へ |