第31回 ミツエ

紹介者 松本 卓也

 

 高校生や大学生向けの講義の際に、チンパンジーの個性や容姿について話をすると、講義に参加していた学生から「お気に入りのメスチンパンジーはいますか?」と冗談めかして聞かれることがある。おそらく、人間のオスである私が、見目麗しいメスチンパンジーにどきどきしちゃうことはあるのか、といった意図で聞いているのだろう。そんなとき、私は少し迷ったふりをしつつ、しかし必ず「ミツエちゃん」と答える(質問者は我が意を得たりという顔である)。確かにミツエは、観察している私をいつもどきどきさせるチンパンジーだ。ただし、ミツエの魅力は、その愛嬌のある容姿だけには留まらない。彼女の「奇行」から、目が離せないのである。
 ――どうもこのチンパンジー、ちょっと変なのではないか。当時修士課程の院生だった私が、ミツエに対して最初に抱いた印象である。ミツエと初めて出会った日のフィールドノートには、「エーっと舌を出す」とある。樹上の果実を探しているとき、ひとりで休んでいるとき、歩いているときなど、いつと決まっているわけではなさそうだが、ミツエはよく下唇を突き出すような仕草をしていた(写真1)(ちなみに、兄のミチオも似た癖の持ち主である)。



写真1 ミツエ(撮影 中村 美知夫)



 ある日、チンパンジーたちがさっさと移動をしてしまい、追跡個体に置いて行かれた私は、ひとりゆっくり休んでいるミツエを発見した。私とトラッカーとミツエ、ゆったりとした時間が流れる。ミツエがおもむろに、傍に落ちていた枯れ枝を拾って1cm 角ほどにかんでくだき、下唇に載せて眺め始めた。そして、そのまま下唇をのばして…そのかけらを鼻の上に載せたのである!横で見ていた私とトラッカーは、渾身の一発ギャグを披露された客席よろしく、もう腹を抱えて大笑いしてしまった。それ以来、私はミツエの行動を「必ず何かしでかすぞ」という気持ちで観察するようになった。
 ある時期ミツエは、物を持って運ぶ、ということにご執心のようであった。αオスのピム(マハレ珍聞第22 号参照)を中心としたアカコロブスの狩猟・肉食が樹上で起こり、しばらくしてオスが3 頭下りてきて、そのあとミツエが下りてきた…と思ったら、アカコロブスの毛皮をタオルのように肩にひっかけて下りてきたことがある。また別の場面では、樹上から果実のたくさんついた枝を背負って下りてきて、他のチンパンジーを追って移動を始めた。移動した先でも好きな果実を食べられるのだとしたら、これほど嬉しいことはないだろう。そもそも「何かを運ぶ(長距離移動させる)」という行為は、赤ちゃんを連れて移動する母親以外では、チンパンジーの間であまり見られない行動である。そして人類進化論においては、「二足歩行によって自由になった両手で、食物などを運べるようになった」と言及されることも多い。ミツエは食物だけを選んで運んでいるわけではなさそうだったが、私の人類進化に関する教科書的な知識を激しく動揺させるのには充分であった。またミツエは、50 年近いマハレの調査史の中で、チンパンジーが食べたことのないアブラヤシの髄を食べ始めた個体としても有名である(マハレ珍聞第17 号9 頁参照)。
 ミツエの珍しい行動の数々は、単なる変人(変チン?)の奇行と捉えることもできる。しかし私には、ヒトやチンパンジーの進化(例えば、環境の変化への適応)において、ミツエのように革新的な行動を示す個体が重要な役割を果たしていたのではないかと思えてならない。ミツエに対して抱いていた「ちょっと変なのではないか」という私の第一印象は、私の長期滞在が終わる頃には、そんな大げさな着想にまで深化していた。



写真2 お兄さんのミチオに毛づくろいしてもらっているミツエ(撮影 中村 美知夫)



 残念ながら、私はミツエの母親のミヤを観察する機会を持てなかったが、ミヤはミツエと同じように聡明で、また上唇を反転させて遊ぶようなお茶目な面を持ち合わせていたようである(マハレ珍聞第5 号参照)。母子関係を主に研究している私は、ミツエの子を観察したいという切なる思いを抱いていたが、私の思いなど知る由も無いミツエは、2012 年にマハレM 集団から移出した。今頃は別の集団で子育てをしているのだろうか。あの「ミツエちゃん」のことだから、ある日ひょっこりM 集団に戻ってきてもおかしくないよな、なんて、私は半ば本気で思っているが。

(まつもと たくや・地球研)



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