第28回 クリスティーナ11

紹介者 松本 卓也

 

 2011年1月27日、カンシアナキャンプの北西に位置する小高い丘の上で、チンパンジーの声を聞こうと待っていた私の前に、クリスティーナ(マハレ珍聞第11号参照)と娘のザンティップが声もなく現れました。クリスティーナのお腹には昨日までいなかったメスの赤ちゃんがしがみついており、時折キィと小さく声を出しています。クリスティーナの出産のためか、3頭は大集団から少し離れて遊動しているようでした。クリスティーナ11(クリスティーナが2011年に産んだ子ども、の意味。以下XT11と略記)は、私が初めて生まれて間もない赤ちゃんを観察する機会に恵まれた個体です。そして後にわかることですが、XT11は世界で初めて観察された、野生下で生まれた障害児だったのです。


写真 お母さんにしがみつくクリスティーナ11


 障害に気が付いたのは生後1ヶ月もたたないころでした。生まれて間もない赤ちゃんは、移動する際には母親のお腹にしっかりと掴まることができますが、XT11は、ときおり両足が母親のお腹からぶらんと離れてしまうことがありました。その都度、母親のクリスティーナは片手でXT11を支えなければなりません。もう片方の手を使ってひょこひょこと歩く様子は、いかにも大変そうです。

 クリスティーナは、比較的「放任主義」の母親として知られていました。世話好きおばさんのグェクロ(マハレ珍聞第7号参照)がやってきて、クリスティーナの子を連れて行っても、他の母親ほどそわそわして心配する様子を見せることはありませんでした。しかしXT11に関しては、娘の(XT11にとって姉の)ザンティップしか世話をしていませんでした。もしかしたらクリスティーナなりに育て方を工夫し、子どもを預ける相手を選んでいたのかもしれません。

 ある日のこと、母親のクリスティーナがXT11を地面に置いて、さっさと木の上へイロンボというツル植物の果実を食べに行ってしまいました。この果実は蜜柑大で堅い殻に覆われており、観察者の私でも上から降ってくる実に当たると相当痛い思いをします。そんな危険地帯の中、地面に置かれたXT11を私はハラハラしながら見ていました。そこへやってきたのは姉のザンティップです。ザンティップはXT11のすぐ横までやってきて、そっと寄り添い、XT11に片手で軽く触れたのでした。私は思わず、「ええ子やで…」とフィールドノートに書いてしまいました。母親のクリスティーナ自身も、ザンティップが世話をしてくれることを頼りにしていたようです。

 詳しい観察の結果、XT11にはいくつか珍しい特徴がありました。左手に動かない6本目の指がある、胸に腫瘍がある、といった身体的な特徴に加えて、XT11は歩いて移動することができませんでした。仰向けで横になっていることが多く、また、母乳以外の食物を食べている様子が観察されませんでした。そんなXT11に対し、M集団の他個体は怖がったり、攻撃したりといった特異な行動を示すことはありません。同年代の赤ちゃんはXT11をレスリング遊びに誘います。オトナの個体は、母親の腕の中のXT11をそっと覗いたりしていました。私はXT11の様子を観察しながら、障害があるということだけで余計な心配ばかりしていたのかもしれないと反省しました。

 最後にもう1つエピソードを紹介しましょう。XT11が1歳半になったころのことです。藪の中で休んでいるクリスティーナを発見し、ふと隣にいるXT11を見てみると、なんと地面にちょこんと座っているではありませんか!私はとても驚きました。座る、という動作は一見楽な姿勢のようですが、上体を起こしたままの姿勢を保つのは、いわゆる「腰が据わって」いなければできません。確かに普通の赤ちゃんならもっと早い段階でできるようになる動作です。しかし私にとって、普通の赤ちゃんよりも遅いけれども、XT11はゆっくりと成長しているのだと、実感した観察場面でした。

 マハレのチンパンジーたちは、3歳の誕生日を迎えるころに名前をつけられます。残念ながらXT11は、名前をもらう前に、2012年12月13日に観察されたのを最後に、私たちの前から姿を消してしまいました。もうすぐ2歳の誕生日を迎えようというところでした。XT11は私にとって、野生チンパンジーの世界に新しい窓を開いてくれた、小さな赤ちゃんチンパンジーでした。

(まつもと たくや 総合地球環境学研究所)



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