マケレレを偲んで

五百部 裕


 タンザニア時間の2013 年10 月14 日午後11 時、 1995 年以来、私たちのマハレでの調査を献身的に 支えてくれていた調査アシスタントのMasayuke Makelele 氏がキゴマの病院で息を引き取られた。 彼の死の直後にマハレに行かれた座馬耕一郎氏(京 都大学)からの報告によると、彼の調子が悪くなり はじめたのは2013 年8 月のことで、9 月下旬には 状態が悪化したために友人宅などに滞在しながらキ ゴマの病院に通うようになった。そして10 月11 日に病状が悪化し、14 日に亡くなられた。医師の 診断では、腸チフスとマラリアの併発が原因であろ うとのことであった。享年は自称で37 歳。あまり にも早い死であった。座馬氏によると彼の遺体は 16 日に故郷のキボンド県ムグンズ村に運ばれ埋葬 されたとのことである(写真1)。



写真1 マケレレの故郷のお墓(座馬耕一郎氏 撮影)


 私が彼に初めて会ったのは1995 年3 月6 日で あった。1980 年代後半、大学院生だった私は当時 のザイール共和国(現コンゴ民主共和国)ワンバ村 でピグミーチンパンジー(ボノボ)を対象とした研 究を行っていた。しかし1990 年代に入るとザイー ルの政情が不安になり、ワンバでの調査を継続する ことが難しくなった。その一方、1993 年4 月には、 幸運なことに京都大学理学部人類進化論研究室の助 手の職を得た。そして当時この研究室の教授であっ た西田利貞先生が、「調査難民」となってしまった 私を見るに見かねて、マハレでの調査に誘ってくだ さった。こうした経緯によって1995 年の夏からマ ハレで調査を行うことになった。加えてこの時期、 放送大学が「HUMAN」という連続講座のためのプ ロジェクトを進めており、そのロケーションハン ティングと予備調査を兼ねて、放送大学のディレク ターの方と1995 年3 月に短期でマハレを訪れるこ とになった。そしてこのとき、私の仕事のアシスタ ントとして働いてもらうために、当時マハレに長期 で滞在していたリンダ・ターナー氏が探してきてく れたのが彼だった。

 彼はそれまで道切りなどの仕事を時々していたよ うだったが、調査アシスタントの経験はなかった。 そんな彼に頼んだのが、私が研究対象として考えて いたアカコロブスとアカオザルの人づけだった。当 時のノートを見返してみると、1 日650 タンザニア・ シリング(当時のレートで1.1 US$ 程度)の給料で、 カンシアナ近くのアカコロブスとアカオザルの群れ を週2 日ずつ追跡するとあった。マハレでの調査は、 当然のことながらチンパンジーを中心に進められて きた。チンパンジー以外の霊長類の研究はそれまで 予備的には行われたが、群れを人づけし本格的に調 査しようというのは、この試みが最初であった。そ こで、私が長期にマハレに入る前に少しでも人づけ を進めようとして雇ったのが彼であった。それまで ザイールで調査を行い、さまざまな要求をストレー トにぶつけてくる人に慣れていた私は、ほとんどな んの要求もせずに、にこやかにほほ笑んでいる彼に、 少々頼りない印象を持ったことを今でも鮮明に記憶 している。

 さてその年の8 月、再びマハレを訪れた私は、マ ケレレと新たにアシスタントとして雇ったBunde Athmani 氏の二人と一緒に、アカコロブスの群れ の観察や中大型哺乳類の密度センサス、さらにはチ ンパンジーのベッド・センサスなどの仕事に取り組 んだ。そこで新たにわかったのは、ザイールの人た ちに比べてはるかに「押しの弱い」タンザニアの人 たちの中でも、マケレレが人一倍物静かな青年であ るということであった。実は彼の名前である「マケ レレ」。ザイールの共通語であるリンガラ語では「騒 がしい」という意味である。そうしたギャップが面 白かった私は、拙いスワヒリ語でこのことを伝える とともに、どうしてこのような名前を付けられたの か、何度か彼に尋ねたが、結局、その理由はわから ずじまいだった。同じことを繰り返し尋ねる私に、 はにかんだような、あるいは困惑したような表情で、 私の言っていることが理解できないと申し訳なさそ うに答えるばかりの彼であった。また彼は、私の仕 事を手伝っていたとき、彼の性格からなのか、はた また彼がマハレ周辺に住んでいるトングウェではな いからなのか、古参のアシスタントからずいぶんと からかわれたようである。そもそも私がおもな観察 対象としていたアカコロブスは、トングウェの間で は、どうも愚鈍で鈍くチンパンジーによく食べられ るサルというイメージがあったらしい。そこでこん なサルを毎日毎日追跡している私の調査は、チンパ ンジーの調査をしている彼らにすれば、「二流」に 思えたのだろう。そしてそんな調査のアシスタント をしている彼は、チンパンジー調査のアシスタント のからかいの対象になってしまったのかもしれな い。そうした周りのちょっと冷ややかな視線の中、 半年の間、彼は文句も言わずにまじめに黙々と私の 仕事を手助けしてくれた(写真2)。そして1998 年の1 月にマハレを訪れた際にも、彼は私と一緒に 森を歩いてくれた。



写真2 1995 年、調査中のマケレレ(左)とブンデ(右)


  その後私が転職し、そのためにしばらくマハレを 訪れることができなかった間に、まじめな仕事ぶり が買われた彼は、臨時雇いから常雇いに昇格し、「一 流」の仕事であるチンパンジー調査のアシスタント となった。それでも2002 年と2011 年の夏、私が マハレを訪れたときには、嫌な顔一つせずに、私の 「二流」の調査に付き合ってくれた。結局、私がマ ハレに滞在したすべての機会において、彼がアシス タントを務めてくれたことになる。そして2011 年 の出発時に、カンシアナで交わした彼とのサヨナラ が、本当のサヨナラとなってしまった(写真3)。  今回彼の悲報を聞いて思ったのは、前述したよう に「早すぎる」ということであった。少なくとも私 の知っているマケレレは、まだまだ若く、たとえ病 気に罹ってもそんなに簡単に死んでしまうような年 齢ではなかったのに…。マハレに行っても、あのは にかんだ笑顔に二度と会えないのかと思うと、とて もとても悲しい気持ちになってしまう。まがりなり にも、私の二流の仕事がなんとか形になったのは、 彼の協力なくしてはあり得ないことだった。また彼 を失ったことは、世代交代が進みつつあるチンパン ジー調査のアシスタントたちの今後にも多大な影響 があるだろう。トングウェではなかった彼が、マハ レにやってきて住みつき、結婚し子供をもうけ、そ してマハレの調査に必要不可欠な人間になってい た。その間には、私には想像だにできない苦労もあっ ただろう。そんな苦労をしてきたであろう彼が、あ の笑顔を浮かべながら安らかに故郷で眠っているこ とを心から祈るばかりである。



写真3 2011 年、カンシアナにて。マケレレ(右)と私


(いほべ ひろし 椙山女学園大学)



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