イルンビの森にゾウを追って

花村俊吉

パート⑤(最終回)—精霊ンクングェとリカプアプアに見守られて
 

 パート①〜④では、ンクングェ山を経由してマハレ山塊の西側から東側へと向かい、故ムトゥンダさんの故郷である村の跡地を辿りながらイルンビの森まで往復した様子をお話ししました。今回でこの旅(サファリ)のお話しもお終いです。

 2006 年8 月17 日(サファリ最終日)。まだ帰りたくないと後ろ髪を引かれつつ、ベースキャンプにしていたマトベ村跡地を出たのは午前9時を過ぎていました。今日は、このサファリの案内人であるムトゥンダさんとムワミさんが住むタンガニイカ湖岸部へと北上し、カトゥンビ村から船を使ってマハレ山塊西側にある私たちの調査キャンプ、カンシアナへと戻る予定です。

 2 時間ほど歩き、マヘンベ村跡地の近くにある丘陵地帯で休憩です。3日前に登頂したンクングェ山が南西に霞んで見えます。煙草に火をつけながら、昨晩ムトゥンダさんから聞いた話を思い出しました。

 原野で煙草を吸っているとその香りに惹かれてリカプアプアがやって来る。見上げても顔が見えないくらい大きな精霊ないし祖霊で、片手に斧を携え、飼い馴らしたゾウを多数連れ歩いていることもある。切り株に煙草を置いておくと、彼が取りに来て翌日にはなくなっていたものだ。狩人の手助けをしてくれることもあるが、狩人から動物たちを逃がしてしまうこともある。

 「リカプアプアと会ってみたいなぁ。」そう呟いた私にムトゥンダさんは、「昔はカタンバの方によく居たのだが近頃じゃ人が住んでいないせいか姿を現さない。」と言いながら遠い目で東方の原野を見つめました。

 昼前には国立公園の境界を示す石碑の横を通過しやがて山の傾斜に沿って拡がる畑と点在する茅葺き屋根の家々が見えてきました。色鮮やかな服を纏った老婆や牛飼いの少年たちとすれ違います。昼過ぎには湖岸に着き、ムトゥンダさんと同じく2010年に亡くなったハミシ・ブネングワさん宅で昼食をいただきました。旅の終わりを祝おうとそこで地酒を買ったのですが、1杯呑んだあと市場にマンダジ(揚げパン)を買いに出て戻ってくると、酒はすでになくなっていて、その横で気持ちよさそうなムトゥンダさんが座っていました。かなり酔っぱらったようで、帰りの船でも大声で喋り続 けていました(写真1)。


写真1:右舷に座っているムトゥンダさん、写真手前を歩いているムワミさん。




地図:5日間のサファリの踏破ルートと主な地名


 2012年5月、私は6年振りにマハレに行きました。そのとき、ムトゥンダさんの墓があるというムハンゲ村(湖岸から徒歩45分ほどの内陸部にある)を訪ねました。この村の住人の多くは、ムトゥンダさんの故郷であるマヘンベ村やマトベ村出身の人びとです。

 山棲みのトングェであった彼らは、集村政策や国立公園設立に伴い湖岸部に移住したあとも山の近くに住み続けたというわけです。

 ムハンゲ村の「ムトゥワレ」(小首長)の、その名もンクングェさん ― 彼らは数多の精霊のなかでもンクングェ山を「ムガボ・グヮ・クパキラ」(もっとも重要な精霊)とする氏族の末裔なのです ― に会い、私は訪問理由を説明しました。最初は訝っていたンクングェさんも、このサファリでのムトゥンダさんとの思い出話をすると、村の墓地に案内してくれました。

 綺麗に草が刈られて少し土が盛られているところにムトゥンダさんの墓はありました。ふと南方に聳えるマハレ山塊の方を見ると、木々の間からちょうどンクングェ山の頂が見えます。その視線に気づいたンクングェさんは、それがこの場所を墓地にした理由だと教えてくれました。そして付近にある精霊や祖霊を祀った種々の造形物を案内してくれましたが(写真2)、毎年暮れに、ここにたくさんの人びとが集まり、山羊や鶏を屠って食べ、盛大にお祝いするそうです。そのなかでも一際目立つのが精霊ムティミの家で、憑依された人が「ムフモ」(呪医)になるというムティミとは、あの原野の巨人、リカプアプアの別称なのでした。


写真2:ムハンゲ村にてンクングェさんの許可を得て撮影。写真奥右手に見える茅葺小屋が精霊ムティミの家。


 帰路、6 年前のサファリ最終日に湖岸に向けてムトゥンダさんと歩いた同じ道を歩きながら、私は感慨に耽ります。ムトゥンダさんに導かれて、その死後も、マハレの山や動物たちだけでなく、そこに息づくトングェの人びとの精霊の世界を垣間見ることができたのだと。

(はなむら しゅんきち 京都大学)


* 2012 年のムハンゲ村訪問は、ラシディ・キトペニさんとシャカ・カブゴンガさんの案内と、ンクングェさんの許可なしには実現しませんでした。感謝します。*

二年半にわたる連載、ありがとうございました。そしてお疲れ様でした!(編集部)


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