第15回 マスディ

西田 利貞

 

マスディの誕生日は、ほぼわかっている。1977年9月19日に初めて確認した。8月下旬には母親のワンテンデレは一人だったので、9月生まれであることは間違いない。上原重男さんがゲーム・リサーチ・オフィサーとして奥さんの茂世さんとミヤコ・キャンプでKグループを調査していたときである。この時期のことは、拙著『野生チンパンジー観察記』(中公新書)に書いてある。私は加納隆至さんからワンバへ来るようにと誘われていたので、この年はカソゲでは1ヶ月余りしか滞在しなかった。ミヤコ・キャンプに住んで、上原夫妻の居候となった。ちょうど、そのときにマスディは生まれた。マスディを二度目に観察したのは1979年である。この年に性周期を回復していたKグループの雌が全員、Mグループに移籍するという大事件が起こった。マスディはまだ2歳だったので、ワンテンデレは移籍しなかった。ミヤコではブッシュ以外に、キャンプでも餌を与えていたので、チンパンジーは人に慣れるのが早かった。母親と共に、マスディも人を恐れなかった。



写真1:2歳のマスディと母親のワンテンデレ(1979年)


その次にマスディを観察したのは1981年である。マスディは離乳期を迎えていて母親を困らせていた。ワンテンデレはMグループへ移籍する時期を迎えた。しかし、彼女が発情を完全に取り戻す前に、ンピラ谷で母子はントロギ率いるMグループと遭遇してしまったのである。ントロギを始めとする大人の雄たちばかりでなく、シラフなど大人の雌にも母子を攻撃する者がいて私はショックを受けた。 しかも、攻撃のターゲットはマスディではなくワンテンデレであった。自然に起こった行動であれば、たとえ激しい攻撃でも、そのまま観察するべきであるという科学的研究のルールなどは私の頭に浮かばなかった。ワンテンデレ母子は放置するにはあまりに親しかったので、人間の友人を助けるのと同じであった。高畑由紀夫君や早木仁成君に呼びかけ、われわれはぐるりと取り囲んで母子を守った。母子は人間たちに完全に囲い込まれたのにおとなしくしていた。ワンテンデレはわれわれの善意を理解したのであろう。ブロックを続けていると、ギャングたちの興奮は次第に納まり、母子は危機を脱した。



写真2:4歳のマスディ(後方)と発情したワンテンデレとバカリ(1981年)


1983年にはワンテンデレは次の子を産み、7月に母子は再びMグループに攻撃された。このときの攻撃のターゲットはマスディの弟である新生児であった。殺害とカニバリズムの全過程を高畑君が観察した。5歳のマスディは襲われなかった。その後、ワンテンデレは発情するとMグループに近づき、発情が終わるとミヤコへ戻るのを繰り返した後、Mグループに定着した。



写真3:8歳半のマスディ(1986年)


こうして、Mグループの中にKグループのY染色体が生き延びることになった。マスディは人なれしていたので、カシハ部落ではニワトリの雛を取る名人として悪名が高くなった。彼は集団が村付近を通過するときには、必ず村の中を物色し、「チキン・イーター」の地位を確立した。兄貴分のアジも雛を取っていたので、アジを見習ったのかもしれない。カンシアナ・キャンプでは、食堂に一時的に置いたバナナの大きな房を丸ごとマスディに盗まれるという事件が起こってからは、われわれは部屋の中に果物を隠す習慣が身についた。


マスディは若者になり、10歳のときには妹のマギーも生まれた。年頃になってもマスディの筋肉の発達は悪く、誰もが「へなちょこ」のマスディという印象をもった。悲しいことに、マスディは「出世しないだろう」というのが、彼を知る者全員の一致した意見であった。彼のディスプレーは印象的ではなかった。口をふんばり、枯葉を押し続けたり、潅木を引いたりと大きな音を立てるし、また長続きもする。しかし、長いだけで迫力にまったく欠けているのである。それでも彼の人生の最高潮のときにカルンデに攻撃をしかけたことがあった。しかし反撃にあい、腰が引けていたマスディはすぐに挑戦はやめてしまった。



写真4:ルブンルング川を渡河するマスディ(前)とつき従うマギー(1994年8月)


マギーが3歳になったとき、ワンテンデレはライオンに食われて死んだ。塚原高広君がライオンの糞から洗い出したチンパンジーの毛と骨から割り出した頭数と年齢構成から、当時行方不明になったワンテンデレもその犠牲者の一人と推定されたのである。マスディは母親の死亡直後に少し運搬しただけで、3歳のマギーの世話は若者雌のトゥラに任せてしまった。トゥラが転出後も、彼につき従うマギーを毛づくろいするより、彼女に毛づくろいしてもらうほうがはるかに多かった。頼りにならない兄貴であった。  2006年、花村君が滞在中にマスディは姿を消した。インフルエンザの犠牲になったと想像される。マスディの人生は波乱万丈だった。しかし、それは29年という短い生涯だった。温和で血を流すことが嫌いで、滑稽な仕草で笑わされることも多かったマスディは、その誕生から死亡までを私がかなり追跡できた数少ないチンパンジーである。私が彼を忘れることはない。



写真5:マスディ(右)を毛づくろいするマギー(1994 年8月)


(にしだ としさだ (財)日本モンキーセンター)


   


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