第14回 ファナナ

紹介者 西田 利貞

   


写真1. 若者時代のファナナ(1989年撮影)


高崎浩幸、早木仁成、長谷川寿一の三氏が調査中の1988年後半のこと。当時はまだ個体識別のあやふやな母子家族が何組かいた。ファンタと息子ファンシーも、そういった辺縁の家族の一組だった。ある日、ファンシーが2頭現れたので、三氏は仰天した。彼らは、ファンシーに似た子どもを、とりあえずのつもりで、「ファナナ」と呼ぶことにした。ファナナとは、スワヒリ語で「〜に似ている」という意味である。翌年初めて私はお目にかかったが、当時、大人の雌をターゲットにしていたので、ファナナといういい加減な名前を放置してしまった。年齢10歳(推定1978年生まれ)も、ファンシーの推定年齢に倣っただけである。こんな年齢でMグループの個体台帳に載ったのは、彼以外にはいない。

ファナナは当時よく独りで動いていた。しかし、その後数年間、ファナナは、痩せた子どもの雄と中年過ぎの雌と一緒にいることが多いことがわかった。ファナナの6歳下の弟と目されたこのオスには「シンシ」という名前がついていた。これはトングェ語で「私は知らない」という意味である!たしか、カンガルーは、現地人が「私は知らない」と答えたのを動物の名前と取り違えてつけられた名称だと本で読んだことがある。それで、これはおもしろいと思ったのでそのままにした。こうして兄弟とも、いい加減な名前が定着してしまった。母親とおぼしき雌には、スワヒリ語の字引からファハリ(誇り)という立派な名前をつけた。おそらく、ファハリ一家はその数年前にMグループに移籍したが、人前にはあまり出てこず、識別されなかったものと思われる。

さて、その頃、彼のディスプレーは右手で地面を叩いて走るだけという芸のなさだったので、「出世は無理」と私は早々に判断してしまった。ントロギの全盛時代が続いていたし、ファナナの前には、年長者が10人近くずらりと頑張っていたからだ。しかし、1995年11月のントロギ虐殺事件の後、1996年の終りまでの約一年間に、トシボ、ジルバ、ベンベ、アジ、ンサバ等が行方不明になり、状況は一変した。

ンサバの後釜にカルンデが返り咲き、他に年長者はマスディだけになったのである。カルンデの第一期(1991年)は約半年という短期政権だったが、ンサバたちが消えた今、第二期(1997年1月〜)は少しは長続きするのではないかと私は思った。しかし、1997年9月、予期に反しファナナが挑戦した。推定19歳だったので満を持してということだったのだろう。連日、ファナナは樹上で挑発したが、カルンデは悲鳴を挙げてもパント・グラントはしなかった。カルンデは、そして時にはファナナも、第三位の雄ドグラの支持を得ようとしてマウントを繰り返した。しかし、ドグラはどちらに味方するのでもなかった。一方、ピンキー、グェクロ、ンコンボという3頭の雌が吠え声を挙げてカルンデを応援した。しかし結局のところ、約1週間で決着がついた。背中に傷を負ったものの、ファナナはカルンデの右手の中指を咬み、爪を剥がしただけで、勝利を得た。9月22日には、ファナナひとりで、カルンデードグラ連合を粉砕できた。カルンデは例によって、敗北するやファナナと手を組み、ドグラいじめに執心し始めた。

   


写真2. アルファオス時代のファナナ. キャンプのブホノの木の下で、実を食べているところ

ファナナ政権は、意外に強力だった。カルンデを参謀につけ、直立して両手で谷に岩を投げこみ大きな音をあげるディスプレーも身につけた。カンシアナでの壁叩きは単調で、二足立ちして右手で叩くだけだったが、誰よりもディスプレーの回数は多く、頻繁にパント・フートした。カルンデやメスたちには肉の分配は忘れず、メスたちの喧嘩には、カルンデとともにパトカーのように駆けつけて、騒動を治めた。決して,どちらかの雌を贔屓にすることはなかった。 

彼は6年間アルファを勤めて、2003年11月末およそ25歳という若さで早々と引退した。しかし、アロフへの政権交代時にカソゲにいた西江仁徳君によると、アロフがファナナと戦った様子はないという。ファナナは突然、姿を消したのであった。おそらく、なんらかの戦いはあったのだろうが、それは非常に早く決着がついたのだろう。その後、ファナナは三年半くらい草鞋をはいていたが、アルファとして復活は困難と見たのか、2007年7月頃、大人雄の最下位に甘んじて、Mグループに復帰した。その退き際は見事というほかない。現在31歳にして、はや長老の風貌である。

(にしだ としさだ (財)日本モンキーセンター)



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