ミツバチ襲撃の恐怖

稲葉あぐみ


 2007年8月、初めてマハレを訪れました。この時期、チンパンジーたちはムサバサバという果実を求めて山の上を遊動していたので、調査初日に最も標高の高い観察路まで登り、そのしんどさと、想像以上に藪が深いのに面喰らいました。調査をはじめて2ヶ月が過ぎ、そんな環境に少し慣れてきたころ、前代未聞の事件が発生しました。

 9月25日、郡山尚紀さんと調査助手のサモラさん、ムトゥンダさんと私の4人は朝から東の山に登り、Mグループを追跡していました。昼過ぎにチンパンジーたちがカンタランバ谷とカソジェ谷の間から山をおりはじめ、後について乾燥した尾根を歩いていたときのことでした。先頭を歩いていたムトゥンダさんが、突然、両手で頭上を払いながら駆け出しました。7〜8m後ろにいた私が、それを見て「ハチ!?」と気づいた直後に、ものすごい羽音をたててミツバチの大群が襲いかかってきました。後方にいたサモラさんと郡山さんも、次々に襲われたそうです。すぐさま斜面下に向かって走りましたが、道もなく棘の藪が深かったので、少し走ってはひっかかり、戻ってはひっかかり、いっこうにハチから逃れられず、帽子もあっという間に落としてしまいました。ミツバチは警報フェロモンといわれる異臭を放ち、頭髪や耳の穴に容赦なく入ってきました。まさに悪夢でした。思わず悲鳴をあげましたが、誰かが助けにきてくれるはずもありません。ところが、走り疲れて藪の中で途方に暮れていたとき、サモラさんが見えるところまできて、なにか叫びながら逃げ道を指し示してくれたのです。彼自身もハチに追われていたのですぐに行ってしまいましたが、お陰でたいへん勇気づけられました。なんとかふもとまで走り、観察路(R1)に出る直前でやっとハチを振り切ることができました。そのままばったりと道に倒れ込み、息苦しさと、血圧低下による虚脱感のため、2時間ほど起き上がれませんでした。このとき、アナフィラキシーショックを起こしていたようです。ムトゥンダさんが遠くの沢から水筒に水をくんできて、ほてった顔と頭にかけてくれたときは、湯気があがるかと思いました(正しい処置ですが、私の場合はかえって具合が悪くなりました)。

 サモラさん、ムトゥンダさんとはふもとで再会しましたが、郡山さんの行方がわかりませんでした。急な岩場をころがり下りて眼鏡を落とし、シャツで頭を覆って地面に伏せていた郡山さんは、ハチが去るのを待ってゆっくり下山し、日が暮れる前に私たちに追いつきました。ハチに襲われた場所は、カンシアナキャンプからかなり離れており、私はやっと立ち上がれるようになったものの、休みながらしか歩けず、キャンプにたどり着いたときには夜の8時を過ぎていました。

 NHKの番組取材でマハレにきていた麻生保さんと中村美穂さん(アニカプロダクション)がキャンプで私たちの帰りを待ち、刺さった針を抜くなどの手当てをしてくださいました。後日、中村さんから「300〜500針は刺さってた。」と聞いたときは驚きました。郡山さんは50針ほど、サモラさんも同程度刺されたようです。森の動物の習性を熟知しているムトゥンダさんは、一ヶ所刺されただけで怪我もなく、さすがでした。獣医の郡山さんに処方してもらった抗ヒスタミン剤と抗生剤(錠剤)を数日間続けて飲み、患部を冷やし、刺し傷や怪我には抗生剤軟膏と抗炎症軟膏を塗りました。翌朝から本格的に顔が腫れあがりましたが、徐々に回復して一週間後には調査を再開することができました。その後の調査は、防虫網(帽子の上からかぶるもの)を常に携帯しておこないました。困ったことがもうひとつ。ハチから逃げるときに深く切れた左手小指の関節が曲がらなくなってしまいました。帰国後、病院で腱が断裂していることがわかり、手術を2回受けて、今も治療中です。災難ではありましたが、命が助かったことと、みなさんのご親切に心より感謝しています。

 マハレでは、ハチに刺されることが多かれ少なかれあります。チンパンジーの観察中にミツバチに刺された経験がある研究者たちに聞いてみると、チンパンジーが巣をたたいたりしてハチを刺激したあと、張本人は逃亡し、傍観者がとばっちりを受けるケースがあるようです。私たちを襲ったミツバチは怒り狂っていましたから、チンパンジーが巣になにかいたずらをしたのかもしれません。

 「(ミツバチの巣には)できる限り、近寄らないようにすること。」マハレ研究者の手引き『マハレ・サバイバル・マニュアル』にはそう書いてありますが、少し付け加えさせていただこうと思います。「襲われてしまったら、落ち着いて避難路を探し、頭を低くして逃げること。危険な場所ではむやみに走らず、顔面と頭部を服などで覆って地面に伏せ、ハチがいなくなるまで待つこと。」花の蜜を集めているミツバチは危なくありませんが、彼らを決して侮ってはいけないことを身をもって知りました。このような事件がマハレで二度と起こらないよう、切に願います。



(いなば あぐみ (財)日本モンキーセンター)




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